各舞曲の反復を完全実行して192分続く至福のときバッハ:パルティータ全集(3CD)タチアーナ・ニコラーエワ(ピアノ)昨年発売されたイギリスのスクリベンダム・レーベルの40枚組ボックスに含まれていたパルティータ全集の単独発売。音源には状態の良いLPを使用しているということです。バッハのパルティータバッハの6つのパルティータにはイタリア趣味が色濃く反映されており、組み合わせの「フランス様式による序曲」は文字通りのフランス風。7曲とも舞曲を中心とした組曲形式ですが、バッハのアイデアはとても豊かで、単なる独奏曲ではなく、室内アンサンブルや協奏曲の対話的な語法にも通じる要素が盛り込まれてもいます。ニコラーエワのパルティータ演奏ニコラーエワの演奏では、室内アンサンブルや協奏曲のパート間の対話を思わせるような部分が実に表情豊かなのが印象的です。ノン・レガートとレガートの使い分け、テンポの緩急、音の強弱への濃やかな配慮が、各パートの独立性の高さを伴って無類の説得力を生み出してもいます。かつて海外でニコラーエワが「フーガの女王」と称えられたのは、そうした各パートの独立性の高い表現が非常に巧みだったことも大きな要因であったと考えられます。 バッハのパルティータ最初の本格的な出版バッハの初出版はミュールハウゼン市時代[1707-1709]のことでした。まだ22歳だった1708年2月に、市参事会員交代式のために作曲した教会カンタータ(BWV71)を市が出版したもので、翌1709年2月にも同様に作曲して市が出版(逸失)しています。 しかし、以後はヴァイマール宮廷[1709-1717]でもケーテン宮廷[1717-1723]でも出版機会に恵まれず、ライプツィヒ市に移って3年目の1726年に、実に17年ぶりに出版の機会が訪れます。レオポルト公つながりケーテン時代のバッハは音楽好きで人柄も良かったレオポルト公(下の画像)のおかげで数多くの傑作を作曲しています。しかし、ケーテンは「カルヴァン派」の町で、カルヴァン派は聖書に忠実なプロテスタントのため、教会ではなく聖書を重視し、教会への寄進も求めず、また、聖書には楽器や聖歌隊が登場しないことから、教会の礼拝では会衆による詩篇斉唱のみ認められ、教会音楽家を必要としないなど、カトリックやルター派プロテスタントとは大きく異なっていました。 これは主に教会音楽家として活動してきたバッハにとっては、ケーテン(人口約4千人)では得意分野を生かせないということでもあり、1720年にはルター派のハンブルク市(人口約8万人)にあるヤコブ教会のオルガニスト試験を受けたりもしています(合格でしたが寄付金が高いため辞退。テレマンがハンブルクに来る前年の話)。 そのレオポルト公に世継ぎのエマヌエル・ルートヴィヒが生まれたのが1726年9月のことで、ルター派のライプツィヒ市(人口約3万人)に1723年に移ってからも夫婦で演奏に出向くなどケーテン宮廷と関わっていたバッハは、パルティータ第1番をエマヌエル・ルートヴィヒに献呈することにします。広告掲出により連続出版を予告1726年11月にはライプツィヒの新聞にパルティータの広告を「クラヴィーア練習曲(クラヴィーアユーブング)順次刊行の予告」として掲載。以後、1730年までに順に全6曲を自費出版し、1731年にはそれらをまとめた合本の体裁で「クラヴィーア練習曲第1巻」として再度出版。その後も1741年のゴルトベルク変奏曲の第4巻まで継続する大型の自費出版企画の端緒となるものでした。「練習曲」という名前当時の世俗音楽業界は富裕層によって成立しており、彼らは音楽家に演奏させるほか、自分で楽器を練習する際の教師役も務めさせていました。多くの作曲家が演奏家と教師を兼ねていたのはそのためで、出版物が高価だった時代に楽譜を売るには「練習曲」として富裕層向けにアピールするのが手っ取り早かった事情がうかがえます。「練習曲」であれば、容易には弾けないような難しい曲でも問題になりにくいですし、難しければレッスン回数が増やせて増収に繋がるというメリットもあります。「練習Powered by HMV